第2節 必要生計費とは page3/3

 それでは、諸外国の「生活水準」対する考え方はどうであろうか。特に米国において近年活発な動きがある「リビング・ウェイジ(Living Wage)条例」(生活賃金)の背景や理論を中心にみていくこととする。

 Shelburne,R.C.(1999)によると、「リビング・ウェイジ」の概念についての歴史は古く、「適正で妥当な賃金概念」として、そもそも中世の頃の宗教的・道徳的理念が起源となり、その後19世紀後半に宗教的指導者が中心となって生活賃金の概念が発展してきた。
 1906年にジョン・ライアン牧師は「成人男性労働者の適正な暮らし」ができるようにする「リビング・ウェイジ」について、食べ物、衣服、5部屋の住居だけでなく、4~5人の子供の教育費、定期刊行物、余暇、労働組合費、教会への寄付、病気や老後に備えての貯蓄を支払える収入として定義した。その後、「適正な生活水準」を得るための必要な収入に関する研究が盛んに行われ、生計費算出のための様々な手法が提案されてきた。
 このような経緯の後、アメリカでは「リビング・ウェイジ(Living Wage)条例」制定に向けた動きが表れている。「リビング・ウェイジ」とは、そもそも低賃金労働者をなくす運動であり、自治体に対して契約業者や下請け労働者に「生活賃金を支払う条例」(living wage ordinance)制定運動のことである。1994年10月、ボルチモア市で、教会・市民団体・自治体労働組合が連携した運動が起こり、市のサービス契約で働くすべての労働者に最低時間賃金6.1ドルを適用する条例をつくったのが始まりである。なお、運動の目標は、その所得者が女性であるか、あるいは男性で結婚しているか否かにかかわらず、一人の所得者に家族を養うことができるようにすることである。
 また、この条例制定運動のさらなる背景として、1949年に採択されたILO第94号条約「公契約における労働条項に関する条約」(日本未批准)がある。これは、①人件費が公契約に入札する企業間で競争の材料にされている現状を一掃するため、すべての入札者に最低限、現地で定められている特定の基準を守ることを義務づける、②公契約によって、賃金や労働条件に下方圧力がかかることのないよう、公契約に基準条項を確実に盛り込ませる。といった目的で制定され、各国のリビング・ウェイジに関する法的整備の根拠の一つとなっている。
 以上のような背景から、Shelburne(1999)は「リビング・ウェイジ」を労働者の「基本的なニーズ」を実現することのできる「公正で妥当な」レベルの収入であると定義し、さらに、「基本的なニーズ」については、単なる物理的な生存以上を意味し、世帯が快適できちんとした生活を送ることが出来るような社会的ニーズも含んでいるとし、栄養のある食習慣、安全な飲み水、ふさわしい住居、エネルギー、交通、衣服、健康管理、育児、教育、長期間の買い物のための貯金、緊急事態、裁量所得を提供すべきでものとして「リビング・ウェイジ」の概念定義が一般的に合意されていると理解している。
 このような「リビング・ウェイジ」に関する概念定義(「基本的なニーズ」を実現することのできる「公正で妥当なレベル」)は、日本における「必要な生計費」算出の考え方にも導入すべきと考える。日本においては、公契約条例の動きはいまだ十分とは言えず、また「標準生計費」といった公共が示す生活水準の考え方はあるものの、最もありふれた「標準的な生活水準」という考え方には、道徳的理念や社会的ニーズといった要素はなく、生活者視点での生計費を考える上では適切さがかけると考える。「リビング・ウェイジ」の根底にある「基本的ニーズ」の実現ための「公正感」や「適正感」は日本の「必要生計費」の考え方にも今後あてはめていく必要がある。
 
 これまでの本稿の考察で、日本、諸外国の生活に必要な賃金のあり方の理論的背景や現在の考え方を俯瞰し、その根底にある「生活水準」をどのように捉えてきたかを明らかにしてきた。そして、生活者は最低限の生存というもの以上に「人並みの生活をする」ことへの欲求があり、世帯としての暮らしが営めるよう、社会の中での「公正感」や「適正感」ある「生活水準」を求めていると結論付けることができると考える。
 すなわち、日本全体の経済、文化、イデオロギーなどの変遷で「生活水準」は変化のあるものとして捉えられつつ、現在の社会全体の中での相対的な位置レベルとして個々の価値観によって認識されるものと考えられる。
 よって、私たちの調査研究していく「必要生計費」として、「必要」という概念はまさに多様性あるものとなり、捉えにくいものでもあるが、労働者の意識にある「生活への満足感」や「収入の満足感」「生活品への充足感」「将来生活への不安感」といったものへの定性的(質的)調査を通した「相対的な位置レベル」を把握することにより、「必要」概念に近づけていくことが可能と考える。本調査研究では、このような考えのもと「必要生計費」の算出を試みていくものである。